博多港から壱岐へは高速船を使って移動することに。昨年の夏にキッズキャンプのお手伝いをしたぶりである。それからすっかり壱岐島の虜になり、今回の滞在も非常に楽しみでした。今年もそのキッズキャンプを開催するか、また、お手伝いができるかどうかを一緒に検討する機会を持てました。 さて、壱岐は長崎県ではあるが、地理的な距離で言えば圧倒的に福岡県がすぐ近く。これは島内の住吉神社の宮司さん曰く、鯨組をはじめとした海洋経済の力によるところが大きかったようです。経済の力が、土地の「帰属」を決めた歴史。長崎出身にもかかわらず、その文脈を知らなかった私は驚きました。 同じく英彦山に するとなんとここの宮司さんは先日、英彦山(ひこさん)を訪れたようです。それも割と近い日に。なぜ行かれたのですか?ちょうど昨日行ったばかりですよと伝えると、偶然の巡り合わせに共鳴が起こりました。 話を伺うと、その宮司さんは現在ある研究されているとのこと。それは「鬨(とき)の声」のルーツについて。戦いの前に士気を高めるために発せられるあの「エイエイオー!」という掛け声を鬨の声というそうですが、もしかすると壱岐にある住吉神社の摂社/軍越(くさごえ)神社にその源があるかもしれないというのです。 蒙古襲来--。壱岐を語る上では欠かすことができない話があります。 蒙古とはモンゴル人やその民族のことをいい、13世紀にチンギス・ハンによって築かれた世界史上最大級の帝国=モンゴル帝国を指します。日本では、1274年の文永の役と、1281年の弘安の役において、2度にわたって軍事侵攻がありました。しかし、この2回目の襲来のときは、大軍で侵攻を計っていた元軍は台風(神風)によって大損害をうけることになり、壊滅し、これは神が日本を守ったのだと言われた。ちなみに、これが神風の起源です! そのルーツがこの神社の摂社(本社と関係の深い神を祀る神社のこと)、軍越(くさごえ)神社にあるようで、そこに文献として記録が眠っていたのだが、ずいぶんと昔の神主がこの記録を研究する目的があって、外に持ち出したようでした。その持ち出し先が、英彦山麓の「まつがやぼう」であったようです。それでここを訪れたということです。 祝詞から戦言葉に? さて、軍越神社というだけあって、軍勢の士気を高める儀式や掛け声があった可能性が高い上に、古代壱岐には、朝鮮半島と大陸の軍事・交通の要所でもありましたから、声で氣を合わせる文化があって当然ですよね。 エイエイオーは祝詞的、神道的であったものが、続く戦国時代にまで口伝により語り継がれ、武士たちが用いていくことになりそれが祝詞から鬨の声に変遷していったとみるのはド素人の私の推測ですが、蒙古襲来に”勝った”という縁起をかついでいた結果、戦の時にはこの”掛け声”を使うことになったのではないかという見方が持てるのではないでしょうか。 つまり、神道においては言霊(ことだま)で場を清め、神を呼ぶ言語行為であったと考えるのが、素人的にしっくりくる。意味の内容以上に、響き・リズム・構造・間(ま)が重要であり、鬨の声ではなく、声による祈り、もっといえば祝詞的”場開き”と見る方が本質に近そうである。 場を整え、神とつながる”言霊”としての祝詞的機能を持っていた可能性があり、それは壱岐・軍越神社が起源かもしれない。壱岐に神社が多いことも納得がいく。 ということで、なぜか自宅にあった言霊学辞典を開き、その言葉の持つ意味を調べてみました。 「エイエイオー(ウ)」とは、 内なる集中(エ)と意志の前進(イ)を繰り返してエネルギーを高め、オで”場”を起動し、ウで生命力として動き始める“声の儀式”。ということでした。 スタジオでも行いたい場の清め 住吉神社を後にし、実際にこの軍越神社に行ってみましたが、外観からはさっぱりエイエイオーという鬨の声、あるいは祝詞が生まれたという様相はなにもありませんでした。ですが、この地でもしかすると何かが動いていたのかもしれない、と思いを馳せるだけで私は全身でその高揚感を味わうことができました。まさに細胞が震えるとはこのことです。 さてさて、今日も脱線したが(いや、何が本線なのだろう?)このように壱岐という場に”興味を持つ”ということは場と関係性を結ぶ上でとても大事なことに思いました。 これは、クライアントとの関係においても重要だと感じます。 何はともあれ、すべてのアクションがどこかに繋げっていると信じてやみません。 エイエイオー! 今後、このような個人的な学びや体験については、下記個人ブログに移行していこうと思います。
よろしければこちらもチェックしてください。 |
Author Wataru Soda Archives
4月 2025
カテゴリ
すべて
早田個人のブログはこちら
|