先日お知らせとしてもご紹介しましたが、株式会社アントレプレナーファクトリー様との協業のもと、私、Navigate代表の早田航が監修・出演を務めた動画シリーズ「身体とウェルビーイング ー心と体を整えるウェルネスナビゲーションー」の配信がスタートしました。
このコンテンツでは、日々忙しく働くビジネスパーソンに向けて、身体と心の整え方を短く・わかりやすくお届けしています。 今回は、その配信開始にあたって、動画の背景や意図についても少し深くお伝えできればと思います。 ◉ 働き方が“身体”に与える静かな影響 今の日本の働き方を見てみると、やはりデスクワーク中心のライフスタイルが大きな割合を占めています。 そして働く時間というのは、人生の中でも非常に長く、連続的なものです。 つまり、「働き方の質」はそのまま「身体の状態」に影響を与えている――そう言っても過言ではありません。さらに言えば、「生き方の質」にもつながっています。 いい状態で日々を過ごす。これはすなわちウェルビーイングです。 ちょっとした違和感も、見逃してしまえば、やがて痛みや不調、集中力の低下といった大きな問題へとつながってしまう可能性があります。 だからこそ、“何かが起こる前に、身体に手を打つ”という視点が、これからの時代にはとても重要になってきます。つまり、違和感に気づいて、すぐにフィットさせていく姿勢ですね。今のあなたを取り巻く環境(エコシステム)が今のあなたの心身とどう馴染んでいるのか?その点をほんの少し振り返っていただければと思います。 ◉ 身体を仕事に合わせる? もちろん、「仕事に身体を合わせる」ことが現実的に求められる場面もあるでしょう。 でも本来は、“身体が自然に仕事にフィットする”ような状態をつくることが、パフォーマンスを支え、快適な働き方を続ける上での鍵となります。 その第一歩として、今回の動画シリーズでは、呼吸・姿勢・柔軟性・筋力・食事・睡眠といった基本の6テーマを軸に、1日1本・5分でできる身体の整え方をご紹介しています。全50本の構成ですので、2ヶ月後には“新しい自分”に出会えるかもしれません。 いえ、実際には、始めたその日からすぐに取り組めて、初日から「実践」と「体感」と「変化」が起きはじめます。 さて、そうしてこの6つのテーマを整えておくことが、そのまま身体のウェルネスにつながっていきます。 ◉ 身体を整えると、心に余白が生まれる ちょうど、朝に顔を洗って気持ちを切り替えるように。コーヒーで一服して頭をクリアにするように。日々の中で、身体をちょっと整えてから「仕事に向かう」ことは、心にも余白が生まれ、仕事との関わり方そのものが、少しずつ変わっていきます。 すると、その余白に、心地よい風が流れ込んでくるようになります。 そんな変化を、ぜひ一緒に体験していただければ嬉しいです。 配信中のコンテンツは以下のリンクからご覧いただけます。自分自身の「働く身体」を「感じる身体」へとアップデートしてみてはいかがでしょうか。 企業向けの研修コンテンツ制作・販売を行う株式会社アントレプレナーファクトリー様より、Navigate早田が監修・出演する動画コンテンツ「身体とウェルビーイング -心と体を整えるウェルネスナビゲーション-」の配信が開始されました。 〈コンテンツページ〉 https://www.enfac.co.jp/contents/wbs/?para01=4259760 デスクワークや日々の業務、あるいは家事などに追われる生活によって、身体の不調を抱える方は少なくないと思います。日常的に取り入れられる呼吸や簡単なストレッチなど、日々の生活をより豊かにするための身体との付き合い方をお話しています。個人でのご利用はもちろん、法人プランや法人向け特別講習等も対応が可能です。ぜひご一読ください。
◆本講座で期待される効果・特徴 ・デスクワーク中でも実践できる 呼吸法や正しい姿勢の整え方 を学べる ・疲労回復やパフォーマンス向上につながる食事・睡眠の正しい知識 を解説 ・正しい知識をもとに健康習慣を実践し 疲れにくく快適に働ける環境 を作れる 博多港から壱岐へは高速船を使って移動することに。昨年の夏にキッズキャンプのお手伝いをしたぶりである。それからすっかり壱岐島の虜になり、今回の滞在も非常に楽しみでした。今年もそのキッズキャンプを開催するか、また、お手伝いができるかどうかを一緒に検討する機会を持てました。 さて、壱岐は長崎県ではあるが、地理的な距離で言えば圧倒的に福岡県がすぐ近く。これは島内の住吉神社の宮司さん曰く、鯨組をはじめとした海洋経済の力によるところが大きかったようです。経済の力が、土地の「帰属」を決めた歴史。長崎出身にもかかわらず、その文脈を知らなかった私は驚きました。 同じく英彦山に するとなんとここの宮司さんは先日、英彦山(ひこさん)を訪れたようです。それも割と近い日に。なぜ行かれたのですか?ちょうど昨日行ったばかりですよと伝えると、偶然の巡り合わせに共鳴が起こりました。 話を伺うと、その宮司さんは現在ある研究されているとのこと。それは「鬨(とき)の声」のルーツについて。戦いの前に士気を高めるために発せられるあの「エイエイオー!」という掛け声を鬨の声というそうですが、もしかすると壱岐にある住吉神社の摂社/軍越(くさごえ)神社にその源があるかもしれないというのです。 蒙古襲来--。壱岐を語る上では欠かすことができない話があります。 蒙古とはモンゴル人やその民族のことをいい、13世紀にチンギス・ハンによって築かれた世界史上最大級の帝国=モンゴル帝国を指します。日本では、1274年の文永の役と、1281年の弘安の役において、2度にわたって軍事侵攻がありました。しかし、この2回目の襲来のときは、大軍で侵攻を計っていた元軍は台風(神風)によって大損害をうけることになり、壊滅し、これは神が日本を守ったのだと言われた。ちなみに、これが神風の起源です! そのルーツがこの神社の摂社(本社と関係の深い神を祀る神社のこと)、軍越(くさごえ)神社にあるようで、そこに文献として記録が眠っていたのだが、ずいぶんと昔の神主がこの記録を研究する目的があって、外に持ち出したようでした。その持ち出し先が、英彦山麓の「まつがやぼう」であったようです。それでここを訪れたということです。 祝詞から戦言葉に? さて、軍越神社というだけあって、軍勢の士気を高める儀式や掛け声があった可能性が高い上に、古代壱岐には、朝鮮半島と大陸の軍事・交通の要所でもありましたから、声で氣を合わせる文化があって当然ですよね。 エイエイオーは祝詞的、神道的であったものが、続く戦国時代にまで口伝により語り継がれ、武士たちが用いていくことになりそれが祝詞から鬨の声に変遷していったとみるのはド素人の私の推測ですが、蒙古襲来に”勝った”という縁起をかついでいた結果、戦の時にはこの”掛け声”を使うことになったのではないかという見方が持てるのではないでしょうか。 つまり、神道においては言霊(ことだま)で場を清め、神を呼ぶ言語行為であったと考えるのが、素人的にしっくりくる。意味の内容以上に、響き・リズム・構造・間(ま)が重要であり、鬨の声ではなく、声による祈り、もっといえば祝詞的”場開き”と見る方が本質に近そうである。 場を整え、神とつながる”言霊”としての祝詞的機能を持っていた可能性があり、それは壱岐・軍越神社が起源かもしれない。壱岐に神社が多いことも納得がいく。 ということで、なぜか自宅にあった言霊学辞典を開き、その言葉の持つ意味を調べてみました。 「エイエイオー(ウ)」とは、 内なる集中(エ)と意志の前進(イ)を繰り返してエネルギーを高め、オで”場”を起動し、ウで生命力として動き始める“声の儀式”。ということでした。 スタジオでも行いたい場の清め 住吉神社を後にし、実際にこの軍越神社に行ってみましたが、外観からはさっぱりエイエイオーという鬨の声、あるいは祝詞が生まれたという様相はなにもありませんでした。ですが、この地でもしかすると何かが動いていたのかもしれない、と思いを馳せるだけで私は全身でその高揚感を味わうことができました。まさに細胞が震えるとはこのことです。 さてさて、今日も脱線したが(いや、何が本線なのだろう?)このように壱岐という場に”興味を持つ”ということは場と関係性を結ぶ上でとても大事なことに思いました。 これは、クライアントとの関係においても重要だと感じます。 何はともあれ、すべてのアクションがどこかに繋げっていると信じてやみません。 エイエイオー! 今後、このような個人的な学びや体験については、下記個人ブログに移行していこうと思います。
よろしければこちらもチェックしてください。 みなさんこんにちは。ナビゲートのソウダです。 4月の桜が満開の日に、親しくさせてもらっている方からのご縁をいただき、英彦山(ひこさん)の麓にある宿坊・守静坊(しゅじょうぼう)を訪れました。 「宿坊(しゅくぼう)?」と聞いて、最初に思い浮かんだのは修行僧が寝泊まりする場所、という程度のイメージでした。でも、すすめてもらったこともあり、私も興味津々で参加させてもらうことに。 福岡県と大分県の境目に位置する英彦山は、奈良県の大峰山(おおみねさん)、山形県の出羽三山(でわさんざん)と並ぶ、日本三大修験道の霊場のひとつとされ、かつては九州最大の修験道の拠点だったそうです。 “修験道(しゅげんどう)”という耳慣れない言葉ですが、これは山に入り、自然と一体となって心身を鍛え、整え、悟りや霊力を得ようとする日本独自の修行の道を指すようです。神道・仏教・道教が融合した“山の宗教”とも言えるかもしれません。そこでは、山伏(やまぶし)と呼ばれる行者たちが、自然との関わりを通じて祈りや癒しを実践してきたという歴史があります。 (私は、「さ〜て、そろそろ山で修行したいなあ」と思っていたわけではありませんが……。でも、どこかの感覚が反応したのでしょう。道中からずっとワクワクしていました。) 身体感覚でよみがえる「場に身をゆだねる大切さ」 この場所での体験は、頭で思い出すというよりも、身体感覚としていろいろなものを呼び起こしてくれました。身体全体が「今はとても大切なひとときを過ごしているよ」と優しく語りかけてくれているようでした。 到着後、駐車場から宿坊まで山道を歩いて進みます。至る所に石垣が残り、かつてこの土地にどれほど多くの“坊”があったのかを物語っていました。明治期の神仏分離(神仏毀釈)によりその多くは廃れ、今では残るのはわずか2つ。その一つが守静坊です。 まず最初にいただいたのは、時間をかけて丁寧に手づくりされたこんにゃくと、あたたかいお茶。4月といえど、山の中の静かな環境でいただく飲み物は身に染みました。そして、目の前には、まさにこの日が満開だった桜。言葉が出ないほどの美しさでした。燦然と、惜しみなく、親しみと暖かさを感じる日本の象徴に、自分が日本人であることにありがたさを感じました。花を見ても、枝を見ても、幹をみてもどれもが自然の中で黙々と雄大に育っている春風に揺れる桜は見事以外の言葉が見つかりません。 先祖供養から食の作法まで、暮らしの祈りを味わう 最初の行(ぎょう)は先祖供養でした。亡くなった方を思い起こすこと自体が供養になると教わり、これまでご縁のあった人たち一人ひとりの名前を白紙に書き綴っていきました。スタジオで出会った方々の名も思い浮かべながら、書きながら、読み上げながら、自然と心の整理が進んでいった気がします。 桜の香りがするお香が焚かれ、円卓で正座しながら、主(あるじ)の導きで皆で般若心経を唱える。まさにかけがえのない時間でした。 続いての作務(さむ)=掃除も、単なる掃除ではありませんでした。動作の一つひとつが静かに心を整えてくれる。まるで瞑想のような感覚がありました。 その後いただいたお風呂も格別。英彦山は“水の神”でもあるとのことで、澄んだ水に身を沈めたとき、水と身体との境界がとろけていくような透明な感覚に包まれました。 人間の体は水でできている——そんな当たり前のことが、体感として迫ってきます。 湯上がりには、銅製のシンギングボウルを頭の上に乗せてもらい、432Hzの音色に包まれました。その音と振動が、細胞の一つひとつを響かせてくれました。 “澄む”といえば、宿坊の玄関にはさまざまな種類の炭が敷き詰められており、「炭(すみ)は“澄む(すむ)”ためのものなんですよ」というお話も興味深かったです。炭を収集しているほどの炭マニアとのこと。世の中には本当にいろんな方がいらっしゃいます(笑)。 食べることで自分を感じる そして、"待ちに待った夕食"と言いたいところですが、この時間は極々自然とその時間がやってきて、とても滑らかな"時間の経過の中にただあるだけ"でした。私はそこでの“食の作法”に驚かされました。 「現代人は、味を目でとらえすぐに口にしてしまう。だからまず、唾液を分泌させてから食べましょう」と教わり、試してみることに。 汁物に入っていた大きめのしめじをそっと舌の上に置いてそのまま1分ほど待つ。じわっと唾液が出てくるのを感じてから噛んでみると..驚くほど深い味わいが広がりました。 備長炭で炙られたきのこ、そらまめ、山芋、しいたけ、わらび、鶏肉などの食材はどれも、味付け不要の力強さ。さらに、囲炉裏で遠火にかけられた日本酒のまろやかさといったらこらまあ〜。 満開の桜がライトアップされ、借景の中で語らいながら、時には沈黙を分かち合いながら、豊かさに満ちた食のひとときを味わいました。 「花より団子」ではなく、「花も団子も」。その言葉がぴったりの夜でした。 朝のしじまに染み渡る朝食と振り返り 翌朝、住職の野見山さんは早くから起きて、温かい朝食を用意してくださっていました。 朝食は野菜と麺のやさしい一膳。ゆっくり、じっくり。ひとつひとつの所作に心がこもっていて、「食べる」ということの幸福さを思い出させてくれました。 食後は、2日間の体験を丁寧に振り返る時間。 「暮らしの中に“体験”という場がある」——その設計が、意図されつつも無意図であるような静かな力を持っていて、とても印象的でした。 私たちは、本来すでに“よく生きる術”を知っている。けれど、効率化の渦の中で、そのことを忘れてしまっている。だからこそ、こうした場で、時間をかけて、体験として思い出すことが大切なのだと思いました。効率と非効率の中道に立つ。行ったり来たりを意識してみたいものです。 最後に、法螺貝の音に見送られながら宿坊を後にしました。 またどこかで、この静けさに出会える気がしています。 (法螺貝ふきたいなぁ〜) (なんと、翌日の長崎県壱岐島にて---この英彦山に訪れていた人と偶然にも出会い、再び、何かが静かに動き出している気配を感じる..つづく)
Navigate 早田 先日、中学校での職業講話にうかがいました。そのときのことをブログに書いたのですが、数日後(おそらくブログを読んだからというわけではないと思いますが)、中学生の方からお礼のお手紙が届きました。
気持ちのこもった丁寧な筆跡と、率直でまっすぐな感想に、胸を打たれました。あまりにも心に響いたので、今回の取り継ぎをしてくださった先生に「こちらからも手紙を書いてもいいですか?」と確認し、快く了承をいただいて、一筆お返しを書くことにしました。内容はというと──「あなたの手紙!感動しました!本当にありがとうございます!」と、まさにそんな気持ちをそのままに。 それが、たしか1~2週間ほど前のことだったと思います。 今日、ふとスタジオで淹れたホットラテを飲みながら、その出来事を思い出しました。すると、なぜだか思考は“現在のフィットネス業界の構造分析”に向かっていってしまいました。笑 (きっとどこかでつながっているんですよね。) というわけで、ここから少し堅めの話になります。あまり関心のある方は多くないかもしれませんが、よかったらこのまま読み進めていただけたら嬉しいです。 さて、現在のフィットネス産業には、依然として根強く残っているアプローチがあります。それが「要素還元主義的アプローチ」です。 ……おおおおっと、なんだその言葉は!? と、私自身も最初は思いました。でも、もっと平たく言うと「何を変えるか」に焦点を当てたアプローチ、ということです。 たとえば── ・体を変えたい ・痩せたい ・痛みを改善したい ・効率よく運動したい といった具合に、目的に対して身体を“手段”として扱うような考え方です。 これは、今も確かに求められていること。だからこそ「そのニーズを満たす場」として、ジムが存在し続けているわけです。そしてジム利用者は「できるようになった!」「変わった!」と、外見や成果といった“目に見える変化”を得ることができる。 一方で、こんなニーズもじわじわと増えつつあります。 たとえば── ・身体だけでなく、心も整えたい ・深くリラックスできる体がほしい ・不調の“本当の原因”を知りたい ・自分で感じて気づきを得たい といったような、もっと“内側”に触れようとする動きです。 さらに── ・年齢や性別を問わず、自然な自分を取り戻したい ・今の自分を維持していきたい ・気持ちと身体が調和した状態で生きたい ・生き方そのものを見直したい ・しっくりと腹落ちする、自分という存在に安心したい そんなふうに、表面的な成果や外見だけでなく、意味や価値、そして存在そのものを含んだホリスティックな視点で身体を整えたいというニーズも、確かに存在しているように感じています。 だからこそ「ジムに行く」という行動の背景に、これまでとは違う理由を持つ人が増えているのかもしれません。 情報やテクニックだけでは物足りない、単なるトレーニングだけでは続かない…… そんな人たちが少しずつ、「何を変えるか?」から「どう在るか──そのために何を変えるか?」という意識へ、重心を移しはじめている。 成果ももちろん大切。 でも本当は、その“意味”に触れたくて、私たちはフィットネスを始めているのかもしれません。 子どものころのように、外の世界に向かって「なんで?なんで?」と問い続けるように。 大人になった私たちは、今度は“自分”という存在にそっと視線を向けて、「なんで?なんで?」と問いかけてみる。 ──そんな姿勢が、また新しい気づきや在り方を運んできてくれるのではないかと思うのです。 さて、着地地点はないブログですが、大丈夫でしょうか(笑)? “読み手に委ねる”という最近の日本のドラマのエンディングのような必殺技を出して筆を置きたいと思います。中学生のお礼の話という冒頭の布石を回収することなしにここで一度失礼いたします(笑) ですが、ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。 2025/04/04, Oita |
Author Wataru Soda Archives
4月 2025
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