みなさんこんにちは。早田です。 今回は、「よりよい日々を送るために、運動以外での実践は何かあるか?」と誰かに聞かれたことを想定して、こちらのブログに書いていきたいと思います。中でも、食事や睡眠を除いて、その領域をマインドの方に向けると、一つはおすすめは「リフレクションジャーナル(日記)」です。 自分の思考を整理し、アウトプットしておくことで、頭はクリアになり、さらに上質なインプットを迎える状況も整うと思います♪ 語り口調がやや硬質な感じとなってしまったり、誰に向けてしゃべっているのか?と思うような交錯がしばし発生しますが、一例としてとどめておいてもらえたらと思います。 10/8/2023
●●●●●●おいて、元●●●●●(●●●●●産業)に勤めておられた方から面白い話をきいた。 正確には、この方からお聞きする前に●●●さんより間接的にお聞きしていたのだが、改めて詳細を拝聴できる機会に恵まれた。 その話はなにかというと、●●●には、同社内で立ち上げられたR&D組織、●●●●(●●●●●●●●●●●●●●)があるということだ。 パーパス経営の重要性をこの時代にもう一度考え直し、「●●●●●●●●●●●●●」というパーパスを策定したという。 急速な社会変化、テクノロジーの著しい発展に伴い、人間の在り方が見つめ直しをされてきて久しいこの頃に、今一度、その社会構成の礎ともなっている株式会社の役割そのものを考え直していかれたということであった。 しかし、このようなパーパスという言葉は、(カテゴリエラーではあるが)SDGsや脱プラ、カーボンニュートラルなどの"標語"がそうであるようにこの言葉自体が一人歩きし、形骸化してしまわないようにしなければいけない。 さらに、当然ながらその標語を策定しただけで新たな事業やサービスが生まれるわけでもないことも留意する必要がある。 加えて、パーパスはビジョンと混同されることがしばし見受けられる。 ビジョンとは何をするか、どんなことを行うかなどを指し示すものであり、パーパスはそれを行う理由や存在意義である。ひいては企業の存在価値。 つまり、パーパスが「why」で答えられるものであるならば、ビジョンは「what」に応えるものである。 [弊社/当スタジオ/早田]が考えたこともここでひとつ改めて表明しておいてもいいかもしれない。 実質的に経営理念自体を私一人で考えていった。もちろん、相談できる人はいたにしても、構想段階から決定までは一貫して自分の内的世界・外的世界に目を向けて思案していった。 私の在り方がスタジオの存在価値を照らしだすものであるし、その存在価値を見つめ直すことは、株式会社が在る意義でもあると思う。 そして、ついに2021年にパーパスを決定した。これは決定したといっても発表したということまでは至らず、自分の手帳に、または自分の胸のうちに閉じていたという流れであった。 パーパス: 最高の未来の可能性を創る 私たちは本来、人間としてより高次の段階へと発達することを希求する生物であると思う。マズローの人間性心理学で述べられている自己実現を追い求めることは"普遍の真理"であり、それは食欲・睡眠欲・性欲と同じように欲求として私たちの身体と心と魂に息づいているのだ。 もし、それを求めることが難しい状況であったり、考える余裕やきっかけがなかったならば、それを支援する人がいないことが理由かもしれないし(つながり)、それをよしとする社会的な空気圧が原因となってしまっているかもしれない(システム)。 また、これを追い求めることを一種の上昇思考だとか、余裕のある人のすることだ。などと揶揄してしまうことは、後天的に獲得していった理性で構築した発想のように思えてしまうのであまり前向きには捉えていない。もっと奥の方にあるはずだと。 もう一度、自分の胸に手を当てて、深呼吸とともに、自分のDNAに聞いてみたい。 どんな人生を送りたいか? 変わるならどう変わりたいか? 自分にとっての自己実現とは一体なんなのだろうか? 私は、それらをサポートすることをスタジオ・会社のパーパスとすることにしたのだ。 「最高の未来の可能性を創る」 --- では、ビジョンは? 実は、ここで詰まってしまった。 いくつも言葉は出てくるがそれを見て心底納得している自分がいなかった。 「人間生活の根幹である身体を十全に作り上げる」 「心身両面の健康をサポートする」 「トレーニングからライフまで、寄り添うことを通してよりよい未来を共に築く」 しかし、どうもしっくりこない。外してはいないがはまってはいない感覚がある。 そして、今はまだ答えが出ない時期だということにして積極的に待つ時期とした。 今はまだ、探る段階なのかもしれない。そう思った。 (そもそも最初は、そんなことを考えて事業をスタートさせたわけではない。トレーニングが楽しいから、それをどうやったら広く伝えることができるかな?と純粋に考えていっただけである。) すると、結果論ではあるが、この前向きなペンディングという決断は私の人生を好転させるものであったように感じる。 その熟考の期間に出会ったいくつもの書籍は、まるで先導人がいる舟のようにゆっくりとではあるが着実に私の人生を小川から大海へと運んでくれた。途中何度も川の湾曲部にぶつかってはいったものの。 ”問いがでた段階で答えは出る”と述べていたのは、アメリカの心理学者ジェローム・ブリューナーだったと思うが、私たちは絶えず問う生き物である。 そして、いつかはその問いに対する答えがでるものである。 問いを考えること自体で、その問いの質は深化し、進化していくのだ。 まさに問いが問いを解決してくれるかのように。 そのような意味では、その問うという行為そのものが、私たちの人生で大切なことのように思えるし、求めているか否かを別にしても、必然をもって絶えず現前してくる。それと対峙し、自己と照らし合わせながらその段階での答えを導いていくことそのものが人生とも言えるであろう。 焦らず、問いを味わう。 焦って出した答え、または、考えることを放棄してその苦悩(あるいは挑戦の機会)と向き合わず安直に出した答えは、質的な段階としてあまり進化が伴っていないものだと思う。 この問いを探し求めて、答えようとし続けるプロセスを辿る私たちはきっと、絶えず”意味を構築する生き物である”。そう、これはもうすでにロバート・キーガンが述べてくれていた言葉だ。 私たちはきっと一人ではできないが、二人だったらできることがある。 そして、共によりよく生きようとすることでそこに創発が生まれるのだと思う。 そんなことをふと思った。記:大分県にて。10/8/2023 |
Author Wataru Soda Archives
9月 2024
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